きゃとらばのどうしようもないブログ ~男子の育児~

愉快な男児とその母の日常をマンガやイラストで描きます。

ズボラ母とその息子

私は、自他共に認めるズボラ女である。

花粉の時期はティッシュを取りに行く手間を減らすため多量に部屋に配置し、料理はなるべく一つの皿にまとめて洗い物を減らす。最近はヘアケアもリンスインシャンプーで時短、洗顔後のスキンケアもオールインワン。

しかし、これは裏を返せば、合理的とも言える。そう、私は合理主義者なのだ!エコであり、時間を捻出でき、見えない経費も削減されている。なんという合理主義!合理主義バンザイ!!しかし生活に潤いは無い。

そんなズボラ、もとい合理主義の私は、先日息子に好物の苺をおやつに出した。パックに半分くらい残っていたので、ヘタを取って洗いながら数粒私がつまみ食いして、残った分を透明パックのままフォークを添えて出した。

ここで夫がいると、皿にくらい移してやれといつも言われる。正直、パックだろうと皿に出そうと中身は変わらないだろ!と私は心の中で思っている。夫は雰囲気に弱い。ちょっとシャレオツな皿に出せば良く見えるんだからチョロいもんである。まあ言われるのが面倒なので、夫の前では彼の望む状態にするように努めるが。

その日は夫がいなかったので、息子はパックの苺を喜んでパクパク食べていた。そこまでは良かった。

なんと、息子は、食べ終わって空になったパックを両手で持ち上げて、それを啜り始めたのだ!

おいおいなにやってんの…と思ったら、にっこり笑顔で「美味しかったー!」

パックに水滴が残っていて、その汁を飲んだらしい。こちらがパックで出しておいて何だが、さすがにそれはどうかと思った。

「え…美味しいの?それ…」

私が尋ねると、「美味しい」と。ホントかよ。「苺の味する?」「うん!」

その時、私はとあるアニメ映画のワンシーンを思い出した。鬱アニメの金字塔、火垂るの墓である。

あのアニメのキーアイテムと言える「ドロップ」。幼い妹節子は大事にそれを舐めていたが、やがて無くなってしまう。悲しむ節子に、兄の清太は、ドロップの缶に水を入れ軽く振り、わずかに残ったドロップの欠片が溶けて混ざった水を与える。節子はそれを喜んで飲むのだ。「色んな味がする」と。

今の状況は、まさに『火垂るの墓』の兄妹そのもののように思えて、さすがの私も息子が少し不憫に思えた。しかし、それくらいの前向きさがあってもいいんじゃないか?とも思う。苺の風味がついてるのかついてないのか分からない、パックに残ったただの水滴でも、美味しいと思える貪欲な感性。個人的には嫌いじゃない。でも、あまりに度が過ぎると、他人は愛想笑いで去っていくので、「自分は客観的に見て人の目にどう映っているか?」は都度気にかけながら息子には生きていって欲しい。終わり。

※御託はいいから苺くらい皿に出せ!というクレームは一切受け付けておりません。

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追記

高畑勲監督が前月亡くなられて、追悼番組として火垂るの墓が放送されたが、今観ても美しい画で正直驚いた。そして、この映画は観る人間の立場、年齢によって見出すものがそれぞれに異なるように思う。共通するものがあるとすれば、悲しみとやりきれない思いだろう。小説を一冊読み終えたような読後感、余韻を感じるアニメ映画はそうそうないが、火垂るの墓はまさしくそれらを感じさせる作品である。不朽の名作。

高畑監督のご冥福を心よりお祈り申し上げます。